三ツ星★★★人生

勢いで会社を辞めた元女SEのその後

小説家に憧れていた私がサラリーマンになったわけ

小学校時代の私は、本当に嫌な子供だったと思います。

成績は優秀な方 でした。小学校の頃から塾に通わされ、(その他に、くもん式、スイミングスクール、サッカー教室、ピアノ、習字も。。)学校の授業を馬鹿にしていました。

 

「こんなの、とっくに塾で習ったし」と。

そんな調子で、授業中に塾の宿題をやる始末。今でも間違っているとは思いませんが、先生や周囲の生徒のことを考えると、もっと他にやり方はあったなぁと思います。

 

私が小学校の頃から、母は「今勉強しとかないとダメになる」と私に言い聞かせていました。毎日勉強、習い事、家に帰ったら母の小言。それでも私は、母の言葉を信じて努力しました。

 

その頃の私は、学校のウサギ小屋で鶏やウサギをだっこするのが好きでした。そして、小学校にはいない不思議な生き物たちのことを書いた、「シートン動物記」、「ファーブル昆虫記」や「世界の動物図鑑」を繰り返し読んでいました。図鑑などは覚えてしまうほどでした。

 

長い後ろ足と長いしっぽをもって砂漠で生きるカンガルーネズミや、二回触れたらパクッと閉じてハエを捕食するハエトリグサ、世界で一番大きな生物のシロナガスクジラ、愛情に満ちたオオカミの親子の物語、、、どれもが世界の広さを感じさせてくれました。

 

「今、自分は子供だから学校に通って親に食べさせてもらうしかない。でも、大人になったら自由になれるんだ!」

つまり、

今から我慢して人より勉強する

=大人になってからたくさんお金を稼げるようになる

=たくさんのお金を使っ好きな時に好きな場所へ好きなことをしにいける

 

これが、小学生の頃から大学を卒業するまで

かたくなに信じていた私の頭の中の公式でした。

 

この記事を読んでいるあなたは驚くかもしれませんが、

この公式は間違っている、と私がハッキリ気付いたのはつい最近のことです。

22歳で就職し、職場の先輩たちを見てモヤモヤし始めました。

「あれ?この人たち、大人なのに全然自由じゃないし、幸せそうじゃないな。おかしいな」

26歳で鬱病になり、ようやく自分が望んでいる方向に進んでいないと気付きました。

 

 

 

小学校の卒業文集には、「小説家になりたい」と書きました。

私もシートンやファーブルのように、世界中を旅しながらいろんな生き物を観察して、それを本にして 、たくさんの人に読んでもらいたいと思ったからです。

小説では、私の好きな世界を作り上げることができます。

小説は、私にとって自由の象徴でした。

 

 

将来の夢を両親にも話しました。

父は「アホか」の一言でした。

母はいろいろと言いました。

「そんなの無理に決まってるでしょ」

「小説家になれる人なんて、本当に一握りなんだから。それに、もしなれても、小説だけで食べて行ける人なんて日本に何人かしかいないのよ」

「あんたがそんな馬鹿なこと言って小説書いてる間に、周りのみんなは勉強してるのよ。あっという間に落ちこぼれになっちゃうよ」

 

 

私はもう二度と、親に夢の話しはしないと決意しました。

 

小学生の私には、自信がありませんでした。読めない漢字も たくさんあったし、そんな私が文章を書くなんて到底不可能なことに思えました。

そして、落ちこぼれになりたいわけでもありませんでした。

 

 

結局私は母の言われるままに中学受験をし、中高一貫の私立の中学校に入学しました。 

「受験勉強」からの解放感もあり、中学に上がってからはあまり熱心に勉強しませんでした。母への反抗もあったかも知れません。

 

中学3年間で、成績はどんどん悪くなって行きました。

私立の中学は、小学校に比べて周囲の子たちのレベルがぐっと上がっていました。私はもう、授業をしっかり聞いてもクラスで一番にはなれませんでした。

 

自分はバカで、周りの子たちはとても賢いと思うようになりました。バカの私が頑張っても、家で勉強などしない頭の良い子に勝てないのです。

そうやってだんだんやる気を無くし、授業中は、当時好きだった漫画のキャラクターをノートに落書きをしていました。 

友達は一人しかいませんでした。その子が学校を休んでしまったらどうしようと、毎日ヒヤヒヤしていました。

 

 

入学当初はクラスで上の下くらいだった成績が、3年生の4学期にもなると、下の中くらいにまで落ちていました。

母はもう私に「テストを見せろ」と言わなくなっていました。

 

 

私は母の嫌いな「落ちこぼれ」になってしまったのだと、すっかり自信を無くしていました。

 

しかし、そんな私でも高校に進学できました。

中高一貫の学校だったので、出席率が基準を満たしていれば、誰でも高校に上がることができたのです。

 

 

高校生になり、私は心機一転、勉強に打ち込むことを決意しました。ほとんどの有名大学の推薦入学枠があったからです。

定期テストでクラス上位を取り続ければ、内申点が上がり、推薦入学ができると考えたのです。

学校の定期テストは、当然ながら大学受験に比べて範囲が狭いです。

しかも、大学受験ほど本気で勉強しているクラスメイトもいません。

 

この頃には、「小説家になりたい」という小学生の頃に抱いていた夢のことなど、すっかり忘れていました 。

 

 

私は高校1年生の1学期のテストから、本気で勉強しました。授業を一言漏らさず聞き、重要な部分、テストに出そうな部分には印をつけておきました。クラスメイトはテストの一週間前になって勉強を始めましたが、私は一ヶ月前から準備していました。

 

定期テストは、英語、数学、現代国語、古文、化学、物理、世界史、、、全ての科目でクラスで1位でした。たまに、数学で2位を取ることもありましたが(1位は当時の私の唯一の友達だったKさん)。

 

私 は採点されたテストが帰ってくるまで待ちきれず、職員室まで行って担任に「私の世界史のテスト、何点でした?何位でした?」と聞きに行っていました。

「もちろん、今回も一番だよ。しかもダントツだ。君は98点だけど、2位は70点だ。よくがんばったね」

先生にそう言われたくて、とてもじっと待っているなんて出来なかったからです。当時の私には、定期テストの成績が全てでした。

 

家に帰って98点のテストを母に見せると、母は言いました。

「今良いからって、油断してるとあっという間に抜かれるよ」

(今、書いていて気付いたのですが、私には母に褒められた記憶がありません)

 

 

1年生の1学期から3年生の4学期まで、私はクラストップの成績で走り抜けました。3年生の夏頃に、担任との進路相談で言われました。

「君の成績なら、どれでも好きな学校の好きな学部を選べるよ。どこに行きたいのかな?」

 

そこで初めて考えたのです。

「私は何学部でどんな勉強をして、将来何になりたいんだろう?」と。

いくら考えても答えはでません。

 

私は先生に相談しました。

先生「贅沢な悩みだね。きみならどこに入ってもやっていけるさ。なんなら、好きな科目で決めたらどうかな?」

私にとって好きな科目は、一番成績が良い科目(生物、物理、化学)でした。そしてなんとなく、白衣を着て研究所で働く科学者なんかかっこいいなーと思いました。これも、当時好きだった漫画のキャラクターの影響です。

 

 私は母に相談しました。

母「一番偏差値が高い大学の、一番偏差値が高い学部にしなさい」

 

私は父に相談しました。

「研究職は儲からないから やめなさい。できるだけ、就職先の選択肢が広い学部にしなさい」

 

どのアドバイスに従うべきか、悩みました。

結局、私は父のアドバイスに従いました。

理工学部の、経営システム工学科です。名前だけで決めました。経営、とシステム、の2つが入っていたからです。これが一番、就職先が広そうだと。実際、その学科の卒業生たちはいろんなものになっていました。

大手の銀行マン、テレビ局のスタッフ 、プログラマー公認会計士、税理士、工場の生産ラインの責任者、営業マン、、、

 

私はその学科を出て 、世界を飛び回るキャリアウーマンになっている自分を想像しました。

「うん、悪くないな」と。

 

 

皆が受験勉強で目にクマを作っている頃、

私はこたつでみかんを食べながらテレビを見たり、運転免許を取るために教習所に通ったりしていました。(授業は秋頃には終わり、あとは自宅で勉強するか任意の講習にでるか自由にする、という学校だったのです 。なので、入学先が決まった子から、学校には来なくなります)

 

 

大学に入学してみると、理系の学科なのに文系の授業もあり、私はいよいよ自分が何者なのかわからなくなりました。

さらに、周囲のレベルの高さにすっかり萎縮します。

周りは受験戦争を勝ち抜いてきた強者ばかり。授業にもついて行けず、私はまた、すっかり落伍者になりました。成績はずっと低空飛行を続けました。。。

 

この頃の私は、ただ、4年間で卒業すること、

そして最終ステップである就職先の選定にだけ、意識を向けていました。

 

「そうだ、父の言っていたコンサルタントになろう。激務らしいけど、儲かるならいいや」

 

 

そうして、私は2年生の夏からインターンシップに応募し、

3年生の夏には「コンサルティング」と名のつく会社を片っ端から受けました。

 

〜ここから下は、「私が鬱病になったわけ」の話です〜

そして愚かにも、内定をもらった数社の中から、最も初任給が高い会社に入社しました。

高い初任給には「みなし残業制」「裁量労働制」の罠があったのです。

簡単に言うと、いくら残業しても残業代は出ない、ということ。

逆に管理者側から見ると、従業員に残業させればさせるほど、利益が増えるということです。(コストは変わらず、売上だけ増えるので)

 

 

何のスキルも身に付かず、パートのおばちゃんたちと一緒になってシステムの打鍵(モンキーテスト)をするだけの毎日。そして、残業だけで月200時間を超える労働の中で、私はどんどん自分を見失って行きました。

 

毎日頭に浮かぶのは、「もっと寝たい」という願望だけ。

 

そして、何のスキルも身に付かないまま3年ほどたったある日、パートナー(別の会社から派遣されてきた技術者)8人のプロジェクトのリーダーを任されました。

 

いよいよ私にもスキルアップのチャンスが巡ってきた!と大喜びしました。

 

 

パートナーは全員、当時の私(25歳)より10歳以上年上の技術者でした。

インフラやDBなど、それぞれのスペシャリストが集められたのです。

その中には、私の父親ほどの年齢で、広い知識を持ち、仕事のできるリーダー格の人もました。(以降、「Aさん」とします)

 

 

システムの仕様を決めるために客先に行くときは、Aさんも必ず付いてきました。私の上司が、私一人では話ができないと判断したのです。Aさんは非常に手際よく、顧客と仕様をつめて行きました。

 

正直、私には理解できない専門用語もたくさんあり、名刺交換してからはほとんど発言しなかった思います。このときは、Aさんがいてくれて本当に助かった、と思っていました。

私一人じゃとても無理だと。

 

 

顧客と決めた仕様を元に、金額を見積って提案書を作れと言われました。

金額など私には検討も付きませんでしたし、どうやって見積もれば良いのかもわかりません。

 

Aさんに相談すると、どういう作業が必要でどれくらい時間が必要なのかを表にしてくれました。私はお礼を言って、その表をもって上司のところへ行き、金額を決めてもらいました。

 

上司は「これ、Aさんが作ったの?」と聞きました。

私が「そうです」とこたえると、上司は安心したように、

「じゃあオッケー」と言いました。

 

 

Aさんは、見やすいテンプレートを作り、それを元に仕様書を作ってくれました。Aさんは、システム環境構築に必要な資料を作ってくれました。私はそれを他のパートナーに配りました。Aさん とパートナーはどんどんシステムを作って行きました。私はプログラミングを久しくやっていなかったので、どのくらい進んだか確認するのが私の仕事になりました。

 

 

顧客が急に仕様を変えて欲しいと言ってきたり、システムでバグが起きたり、データで不整合が起きたりと、いろいろな問題が起きました。

その度に、会議を開いてどうすべきか話し合います。

Aさんに言われて、どんな問題が起きているのか知ります。

Aさんに言われて、私がみんなを会議室に呼び、どんな問題が起きているのかをみんなに説明します。

すると、Aさんが私の説明を言い直します。

私の説明は冗長だし、不正確だと指摘します。

私は誤り、どうすれば解決できるのかみんなに聞きます。

みんなはいろんな意見を出しますが、私にはどれが良い方法なのかわかりません。

Aさんは私に決めろと言います。リーダーなんだから、指示してもらわないとこっちが困ると。

Aさんは言います。お前も意見を出せと。

 

私がしどろもどろになりながらも、こういう問題が起きているならこうすればいいのではないか、と話します。

Aさんは私が提案した解決策のどこがどういう理由でダメなのか、どういう無駄があるのかを合理的に説明します。

私は「はい、おっしゃる通りです」とうなずき、それが2時間続きます。他のパートナーはうんざりした顔や、気の毒そうな顔でこちらを見ています。

 

会議が終わってしばらく、私は視界がぐらぐらと揺れ、立ち上がることができませんでした。

 

私は何のために存在しているんだろう?

こんな何もできないリーダーなら、いない方がよっぽどスムーズに仕事が進むんじゃないだろうか?

私はいない方がいい。

そう思いました。

 

Aさんは、直接そんなことは言いませんでしたが、

直接言うよりも余程こたえるありとあらゆる方法で、「お前は、ただ社員だからという理由だけでリーダーを任されたんだ」と私に伝えました。

そして、私もそれが正しいと思いました。

 

 

数ヶ月が経ち、私は鬱病になりました。